ペルーと日本人

ペルーでの日本人の歴史

このページではペルーへ移民として渡ってきた日本人の歴史を紹介しています。

せっかくペルーへ観光に来られ、実際にこの地を歩かれるのであれば、私たち日本人とペルーとの歴史的背景や関係性を知っておくと、理解が深まりより一層観光を楽しめるのではないかと思います。

日本から見ると地球の裏側に位置することもあり、日本人にとって遠い国という印象が強いペルーですが、この国が日本にとって深い関係にあるのはご存知でしたか?

ひとつは、ペルーの原住民は日本人同様、赤ちゃんの時お尻に蒙古斑点があり、原点は同じ民族だということです。

これは、人類学的には蒙古人が約5万年前にアリューシャン列島を越えて、北米のインディアン、グアテマラ、コロンビア、ペルーの原住民として、各地に定住するようになったからだと言われています。

もうひとつは、ペルーには多くの日系人がいるということです。

1990年、日系人のアルベルト・フジモリがペルーの大統領になったというニュースは、日本のテレビ番組でも取り上げられました。

また、日本のバブル期には多くの日系ペルー人が出稼ぎで日本へやってきています。

日本では南米の日系人というと「ブラジル日系人」が一番に思い浮かぶ人が多いと思いますが、南米で初めて日本人移民を受け入れたのはペルーだということを知っている人は少ないと思います。

ペルーへの日本人の移住が始まったのは1899年、1908年のブラジルより9年も早く始まっています。

この日本人のペルーへの移住は、人手不足に悩むペルーの農園で働くための契約移民としての移住でした。

もともとペルーの農園では黒人を奴隷として働かせていましたが、1854年に奴隷制が廃止されると、今度は中国人(当時は清国)の苦力(クーリー)を移民として連れてきて働かせるようになりました(苦力貿易)。

しかし、苦力たちは農園主からの奴隷のような扱いに我慢が出来ず、各地で反乱を起こすようになり、苦力貿易も廃止になってしまします。

1872年には、ペルーへ連れてこられた中国人苦力たちが奴隷のような扱いを受けていたということを知る事件が、日本で起こります。

「マリア・ルス号事件」といって、中国からの苦力230名を乗せたペルー船籍、マリア・ルス号が横浜港へ寄港した際、船内での虐待に耐えかねた2名の苦力が脱走し、日本が保護をしたことが発端となりました。

マリア・ルス号の船長は、苦力たちをペルーへそのまま連れて行くため「移民契約」の履行を求めましたが、日本で行われた裁判では、苦力たちに対する行為が人道に反するものであることから、その契約は無効とし却下。結局マリア・ルス号に乗船している苦力全員を解放し、本国へ帰国させることになりました。

この問題は、その後、ペルー側が日本での判決を不服としたため、第三国のロシア帝国を介しての国際裁判にまで発展することになりますが、そこでもペルーの要求は却下され、事態はようやく収拾されました。

しかし、このマリア・ルス号事件をきっかけとして、ペルーと日本は日秘修交通商航海仮条約を締結することになり、ペルーは南米諸国のうちで最初に日本と国交を樹立した国になりました。

ペルーと中国との苦力貿易は1874年に廃止され、中国からの苦力に代わる農園の労働者として白羽の矢がたったのが日本人でした。

森岡商会という日本の移民会社が、農園で働く移民としての契約の仲介に入り、日本人のペルーへの移住が始まります。

横浜港から出港した最初の移民船「佐倉丸」には790名の日本人が乗船しており、1899年4月3日にペルーのカヤオ港へ到着しました。

790名の移民は全て男性で、移住と言っても、4年の契約期間満了後に帰国するつもりだったと言われています。

移住後の日本人たちは、コスタと呼ばれる海岸地帯の大農場で、綿花の栽培、砂糖キビ畑の小作人、製糖工場の作業員として働くようになりました。

しかし、言葉が通じないことによるストレス、生活習慣の違い、重労働、現場監督による賃金の中間搾取など、大変な苦労がありました。

それに加え、マラリアやチフスなどの風土病にも悩まされることとなり、多くの死者も出ました。

移住者たちは、この窮状を訴えるため日本の外務省宛に手紙を出しました。

外務省は、移住者と農場主との対立があまりにも深刻な状況であると判断し、一旦は、移住者全員を日本へ帰国させる決定を下しますが、700人以上を帰国させるだけの船の手配ができず、農場主に待遇の改善を粘り強く要求することを約束し、移住者たちには今の状況を耐えるよう説得をしました。

その甲斐あってか、農場主は移住者の待遇改善にあたるようになり、移住者もペルーの風土に慣れてきて、この対立は少しずつ改善されてゆきました。

ペルーへの移民事業は1923年に移民契約が廃止されるまで続き、18000名近くの日本人がペルーへ移住することになりました。

日本には戻らず、ペルーで生活することを決めた移住者の男性の中には、日本に住む女性と写真だけのお見合いをして結婚、日本から奥さんをペルーへ呼び寄せた人たちも多かったようです。

移民としての契約を終えた移住者の中で、蓄財に成功した人たちは、首都であるリマやその隣のカヤオを目指すようになり、その数はどんどん増えてゆきました。

リマやカヤオでは庭師やコックとして雇われたり、雑貨店や理髪店を開業したり、特に開業資金が少なく、手先の器用な日本人に合っている理髪店は人気の商売で、日本人の理髪業組合も結成されるほどでした。

商売を始めるにあたり、信用のない日本人移住者たちは銀行ではお金を貸してもらえないため、開業資金の調達ための頼母子講も催されるようになりました。

1917年には現在のペルー日系人協会の前身であるペルー中央日本人会が結成され、1920年にはリマ日本人学校が創設されるなど日本人移住者たちの組織化も進んでゆきました。

しかし、日系人同士で固まり、現地の住民とあまり交流を持たなかった日系人たちは、ペルー社会で反感を買うことになります。

1930年代には、満州事変の影響で日米関係が悪化すると、親米的なペルー政府や国民の反日感情は高まりをみせ、1940年にはリマを中心に日系人が経営する商店が襲撃されるリマ排日暴動事件が起こります。

1941年12月、日本の真珠湾攻撃により太平洋戦争が始まると、日系人の資産凍結、集会の禁止、日本人学校の没収、日本語新聞の発行禁止などの処分を行います。

更に、アメリカ合衆国の要請に応じて日系人たちを北米の強制収容所へと送り、その数は2000名にも上ったと言われています。

こうした不遇の時代を過ごしてきた日系人ですが、ペルーではもともと「日本人は、勤勉で誠実だ」という評価があり、また、二世、三世の世代になると現地の住民との交流も盛んに行うようになったため、ペルー国民と日系人の関係も徐々に修復してゆきました。

そして日系人の評価は、現在のペルー社会においても高いものがあります。

有名な政治家、ペルーの国民食と呼ばれる鶏の炭火焼きレストランチェーン店(NORKYSやROCKYS)、家電製品の量販店(HIRAOKA)のオーナーなど、現在でも多くの日系人がペルーで活躍しています。
 
特にリマ市内では、旅行でペルーを訪れるお客様も日系人経営のお店の看板を多く目にすることになると思います。

ペルーへの旅行で判らない事、知りたい事があればどんなことでも結構です。ぜひ私たちにお問い合わせ下さい!

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